「多才な人」と「スペシャリスト」どちらが良いのか
みなさんこんばんは、Sugar珈琲です。
世の中には、多様な才能を持つ人もいれば、ある分野に特化したスペシャリストもいますよね。
目指すとしたらどちらが良いのでしょうか。
・専門分野と一般教養
あなたは自分の「得意な分野(専門分野)の知識」を多く持っているだろう。
あなたがまだキャリアを積み始めたばかりであっても、あなたの知識量は、すでに過去の先輩たちが持っていた知識を越えているはずである。
過去の経験や研究をもとにさらに進歩しているのだから。
では、「専門分野以外の知識」はどうだろうか。
あなたの知識は、過去の時代に同じ職についてい当た人より多いのだろうか。きっと少ないであろう。
脳のキャパは限られている。専門分野の知識の量が増えるほど、一般的な知識のためのスペースは少なくなるのである。
そうはいっても自分は知識人であると考えている人もいるかもしれない。本当にそうなのだろうか。コンピュータのプログラミングやその中身のチップの構造、デザインのような分野から、コーヒー豆の栽培・売却までこの現在の世の中には様々な「専門分野」が存在する。彼らは本当にこのような仕組みを知っていて知識人を名乗っているのだろうか。
おそらく、「井の中の蛙」と同様狭いコミュニティの中で少し周りより抜きんでているだけで、そう感じているだけである。様々な分野の様々な世代の存在を考えると、そう簡単に「知識人」は語れない。
広いと思っていた自分たちの知識は、実はごく限られた領域でしかないのである。
つまり、「専門知識」が緩やかに増加している一方で「知らない知識」は爆発的に増加しているのである。
石器時代であれば「多才」な人が生き延びることができた。自分で石斧を作り、狩猟・採集をし、調理をする。生きるための行動をすべて自分で行わなければならなかったからだ。
だが、現在は違う。今では、「スペシャリスト」でなければ生き延びることはできず、「多才な人」にはチャンスがない。
しかし、現在の私たちの中にはこの石器時代の「多才であることの価値」が根強く残っている。そのため、私たちは特定分野の知識しか持たないことに居心地の悪さを感じてしまう。特定の分野の知識しか持たない自分が、立場の弱い不完全な人間に思えて後ろめたさを感じてしまう。
職業上の成功を手にするにも社会の豊かさを実現するにも「専門性」は欠かせないというのに。。。
一般的な教養は今現在となっては趣味としてしか役に立たない。仕事のチャンスを広げようと思うのなら、たくさんの知識を詰め込もうとするのではなく、自分の専門の分野をさらに深く追及することが必要なのである。